「 築城の名手、藤堂高虎 」
~ その4 : 上野城 ~ |
[写真&コメント:10期/岩田さん(S49年電気卒)] . |
○○ 城シリ-ズ ○○
戦国武将の中ではやや地味ですが、根強い人気のある築城の名手といわれた “藤堂高虎” が携わった城を今回まとめて紹介します。
既に紹介済みのものや未発表のものを時系列でまとめてみましたが、全体として分量が多いので何回かに分けて紹介します。
・その1 : 「大洲城ほか」 ( ← 以前掲載分)
・その2 : 「膳所城跡」 ( ← 以前掲載分)
・その3 : 「今治城」 ( ← 前回掲載分)
・その4 : 「上野城」 ( ← 今回掲載分)
・「伊賀上野城」 (伊賀上野城公式ホームページ)
・「伊賀上野城パンフレット(PDF) 」
《付録》 「お城探訪記」
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藤堂高虎像
(伊賀上野城 設置) |
[ 上野城の撮影日 : 2020.11.26 ] |
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(6) 江戸幕府開府により天下普請のもと江戸城の拡張を諸大名に命じ、藤堂高虎は1606年外部石壁普請を担当、1607年には天守台、石塁などの修築の設計を担当した。
(江戸城は 「2008年10月 ・ 、2009年9月 ~その2~ ・ 、2009年10月 ~その3~ ・ 」 にて紹介済み) |
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(7) 1608年に徳川家康の重臣となっていた藤堂高虎は、江戸城の改築などの功績をあげ、伊賀上野藩主の改易と津藩主の宇和島転封により伊勢、伊賀を加増され津藩主となった。
伊賀地方は戦国時代に織田信長が平定し、その後豊臣秀吉の家臣が守護となり、大河ドラマでも出ていた筒井順慶の養嗣子、筒井定次が築城した。定次が関ヶ原の戦いの時、徳川家康の命により会津征伐の最中に西軍により攻撃されたが、何とか奪取し定次は伊賀上野藩を立藩した。
ところが定次は不行状により改易され、その代わりに藤堂高虎が入国した。高虎はすぐさま大坂城に対抗するため1611年に大幅改修に着手した。しかし1612年9月に台風のため改築中の天守は倒壊してしまった。その後1615年には大坂の陣で家康が勝利したため堅固な城を造る必要がなくなり再建されなかった。
現在の天守は地元の名士が私財を投入して1935年(昭和10年)に模擬天守を再建したものである。 |
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(↑:click) [ 出典 : 「今むかし 日本の名城88 東日本編」(P127/株式会社平凡) ]
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三層三階の天守 |
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天守の案内板
(↑:click)
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本丸への通路と筒井氏により築かれた石垣
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本丸の入口
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天守は台風で倒壊後は再建されなかったが、
城としては津幡の支城として藤堂氏が幕末まで
支配していた。 |
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本丸広場
天守は写真手前側
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西側から見た天守
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藤堂高虎像
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高虎が築いた天守の西側の高石垣
西(大阪方面)からの攻撃に備えたものと思われる。 |
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大坂城本丸東面、大坂城南外堀についで
3番目に高い石垣 |
高石垣と
前方は伊賀市(旧上野市)の市街地
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北側から見た天守
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伊賀鉄道 上野市駅
伊賀忍者にちなんで「忍者市駅」の愛称になっている。
また、第四回中部の駅百選に選ばれている。
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駅構内には忍者の人形が出迎える。
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上野市駅から見た上野城
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上野市駅に留置中の伊賀鉄道の車両
右側は忍者列車と呼ばれている。東急からの車両
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伊賀神戸行きの忍者列車
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[2021.03.06 :受付] . |