な ん で も 写 真 館



「 築城の名手、藤堂高虎 」
~ その1 : 大洲城
ほか
[写真&コメント:10期/岩田さん(S49年電気卒)]   

   ○○ 城シリ-ズ ○○

戦国武将の中ではやや地味ですが、根強い人気のある築城の名手といわれた “藤堂高虎” が携わった城を今回まとめて紹介します。
既に紹介済みのものや未発表のものを時系列でまとめてみましたが、全体として分量が多いので何回かに分けて紹介します。

・その1 : 「大洲城」 ( ← 今回掲載分)

  《付録》 「お城探訪記

藤堂高虎像
(伊賀上野城 設置)
[ 大洲城の撮影日 : 2016.11.10 ] 


(1) 築城の名手、藤堂高虎は1556年1月、近江国 藤堂村(現 滋賀県 甲良町)に生まれた。当初は浅井長政に仕えたが、浅井氏滅亡後は仕官先を転々とし、最終的に豊臣秀吉の弟、秀長に仕えた。秀長のもと功績を上げ紀州征伐の戦後、紀伊の粉河に5,000石を与えられ高虎最初の築城となる猿岡山城(現 和歌山県紀の川市粉河現在は石碑のみ 未訪問)と和歌山城を築いた。


和歌山城  (2015年12月10日撮影)  
詳細は2012年4月に紹介


(2) 紀伊の国においては、北山一揆を鎮圧するための拠点として赤木城 (現 三重県熊野市 現在は曲輪のみ 未訪問)を築城した。秀長の死後、出家したが還俗して1595年に宇和島の大名となり宇和島城を改築している。


宇和島城  (2014年7月17日撮影)  
詳細は2014年7月に紹介
 


(3) 1595年に藤堂高虎は宇和島の藩主となったが、宇和島には城代を置き高虎自身は大洲城を居城とした。 大洲城自体は鎌倉時代に伊予宇都宮氏により築城され、南伊予を中心に支配してきたが豊臣秀吉の命で小早川隆景により滅ぼされ伊予の支城となり、高虎がその後入城して近代の城郭として整備された。

   ○○ 城シリ-ズ ○○

 肱川の河畔に望む大洲城は、元弘元年(1331年)鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房によって築城されたといわれ、その後、藤堂高虎等によって大規模に修築がなされ、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していきました。
 明治維新後は、城内のほとんどの建築物が破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存されましたが、明治21年(1888年)老朽化により、惜しくも天守は解体されました。
 その後、大洲城を愛する地元住民の城郭への保護活動と、市民による寄付等によって平成16年(2004年)に復元されました。
 四層四階の複連結式天守の復元にあたっては、明治時代の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料を基に当時の姿を正確に復元されました。このように復元に必要な多くの資料が残っていることは大変稀なことで、大洲城の天守の復元は、まさに地元住民の想いと、史料研究の集大成と言えます。
 現在、江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓は国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されています。
                                        [ 出典 : 大洲市観光情報 ]

・「大洲城」  (大洲城公式サイト)
・「大洲城跡」 (大洲市教育委員会) 
・「大洲城」  (大洲市観光情報)


  《付録》 「お城探訪記
[ 撮影日 : 2016.11.10 ]


[ 大洲市教育委員会HPから ]


[ 出典 : 「今むかし 日本の名城88 西日本編」(P85/株式会社平凡) ]




大洲城


四層四階の天守
 



案内看板


天守と高欄櫓(左)、台所櫓(右) 


当時の城郭の模型

 
天守からの大洲市街


台所櫓を正面とした天守と高欄櫓

 
石垣下から見た天守


石垣下から見た台所櫓(左)と天守

 
城の下を流れる肱川付近から見た台所櫓と天守


大洲城下台所(当時の食糧庫) 
右は大洲市民会館

 
苧綿櫓


肱川の畔から見た苧綿櫓

 
肱川の堤防 前方の橋は肱川橋


肱川橋から見る肱川の堤防と天守

 
城下の一角に明治の街並みが復元されている


街並みの一つ

 
R予讃線 伊予大洲駅
ここから大洲城まで徒歩で約20分


伊予大洲駅停車中のJR四国観光列車 「伊予灘ものがたり」

 
「伊予灘ものがたり」は、となりのS17五郎駅経由の
伊予灘沿岸を通る旧線を運行している。
U13新谷駅経由はトンネルばかりの新線。


[2021.02.13 :受付] 

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