な ん で も 写 真 館



「 築城の名手、藤堂高虎 」
~ その5 : 津城
ほか
[写真&コメント:10期/岩田さん(S49年電気卒)]   

   ○○ 城シリ-ズ ○○

戦国武将の中ではやや地味ですが、根強い人気のある築城の名手といわれた “藤堂高虎” が携わった城を今回まとめて紹介します。
既に紹介済みのものや未発表のものを時系列でまとめてみましたが、全体として分量が多かったのでこれまで何回かに分けて紹介してきました結果、今回の「~その5~」で最終回を迎えました。

・その1 : 「大洲城ほか」 ( ← 以前掲載分)
・その2 : 「膳所城跡」  ( ← 以前掲載分)
・その3 : 「今治城」    ( ← 以前掲載分)
・その4 : 「上野城」    ( ← 前回掲載分)
・その5 : 「津城
ほか」   ( ← 今回掲載分)


・「津城跡」 (三重県観光連盟ホームページ)
・「津城跡」 (津市ホームページ 」


  《付録》 「お城探訪記

藤堂高虎像
(伊賀上野城 設置)
[ 津城の撮影日 : 2020.11.02 ] 



(8) 1608年に津藩主となった藤堂高虎は 津城 を居城とした。もともと津城は戦国時代に伊勢国人の細野藤光が築いたが、織田信長の伊勢侵攻によりその弟、信包が入城し五層の天守に改築した。更に豊臣秀吉の時代になると家臣の冨田一白が入城したが関ヶ原の戦いでは東軍に就いていたため、西軍からの激しい攻撃を受け天守は焼失した。その後冨田氏により天守は三層の天守に再建され、冨田氏が宇和島転封に伴い高虎が入城した。しかし1662年に火災により天守は焼失し、その後は再建されなかった。これは藤堂家が外様大名にかかわらず、譜代大名並みの扱いを受けていたため幕府に遠慮していたためと言われている。


【津城】


:click)  [ 出典 : 「今むかし 日本の名城88 東日本編」(P121/株式会社平凡) ]




津城前の広場で何かのイベントがあるのか武士装束の人たちがいた。
 







案内板
:click)
 

1958年(昭和33年)に復元された丑寅櫓

 
丑寅櫓の入口(中へは入れない)


本丸北側に築かれた石垣

 
本丸内のお城公園から丑寅櫓を見る


お城公園内の藤堂高虎

 



本丸の石垣

南側の内堀にかかる橋 左側は津市役所

 
南東側から見た内堀と石垣


本丸北側の石垣
今治城や上野城ほどの高さはないが高石垣となっている。

 
丑寅櫓と石垣


津城前の高虎の句碑
 
伊予国から高虎が入城したことにより、
津市には「伊予町」の名前の場所がある。



(9) 1609年徳川家康は山陰道の押さえとして、天下普請の号令により 丹波篠山城 の築城を命じ藤堂高虎も携わった。ただ天守は建設されなかったようである。現在は高虎の設計したであろう天守台の石垣、内堀などが遺構として残っている。(未訪問)


:click)  [ 出典 : 「今むかし 日本の名城88 西日本編」(P33/株式会社平凡) ]
     
     


(10) 1619年に藤堂高虎は2代将軍秀忠の娘、和子が後水尾天皇の女御として入内するにあたり 二条城 の改修にあたった。


二条城 (2016年10月撮影)
詳細は2019年7月に紹介 




(11) 1630年10月5日、藤堂高虎は江戸の藤堂藩邸にて死去 享年75才 津藩は嫡男 高次が2代藩主となった。1669年に高次は隠居する際、津藩の支藩として久居藩5万石を立藩し、津藩3代藩主 高久の弟、高通を藩主とした。
津藩の藤堂本家は4代で終わり、その後は久居藩より養子を迎え明治維新まで12代にわたり支配していた。
《 久居誕生350年事業 》
 2019年が立藩350年、
 2020年が「永久に鎮居する」ということで「久居」と命名350年、
 2021年が藩主高通の入府350年で色々なイベントが計画されていたが、
 新型コロナウィルスの関係でほとんどが中止となってしまった。
  ↓
 
(↑:click)
[出典 : 「図説 江戸三百潘 城と陣屋総覧~西国編~」
(三浦正幸監修/学習研究社 (P33))]


久居藩には城は建設されず陣屋のみ
 陣屋跡は碑が立っているのみ
(2021年1月11日撮影)
 
久居陣屋跡全景


[2021.03.13 :受付] 

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