先日開催された 「2023 YUMC OB&OG会 in 甲府」 の翌日帰途に、 “清洲城〜岐阜城” を巡って岐阜で一泊したあと、次の日も続けて “亀山城” を巡るという弾丸ツアーを敢行し、まず “清洲城” の概要を紹介したのに引き続いて今回は “岐阜城” を紹介します。(当初は亀山城に続いて “伊賀上野城” も巡る予定だったが、山城の岐阜城で予想外に体力を消耗して疲労困憊のため止む無く断念!)
普段は午後5時最終の下山用ロープウェイが、当日は午後8時までに延長されていたので、海外からの観光客も含めて予想外の観光客で溢れかえっており、ロープウェイに乗るまでに30分以上もの時間がかかってしまった。
《岐阜城の概要》
〜天下布武の舞台・岐阜城〜
岐阜城(稲葉山城)は鎌倉時代以来の歴史を持つ山城です。本格的な城郭整備は戦国時代、斎藤道三公の時期と考えられます。
永禄10年(1567年)、織田信長公は稲葉山城を占領し、本拠地を小牧山から移します。信長公はそれまでの「井口」を「岐阜」と改め、「天下布武」を唱えて天下統一に向けた戦いを勧めました。
信長公が天下統一の拠点として城であること、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスなどの訪問記録が残されていること、貴重な庭園が見つかっていることなど、岐阜城跡には様々な歴史的価値があり、山麓の城主居館跡や自然地形を含めた金華山一帯が国の史跡に指定されています。
[出典 : 史跡岐阜城跡 HP]
・「史跡岐阜城跡」 (織田信長公居館跡発掘調査HP)
・「岐阜城」 (岐阜市観光ナビ)
・「岐阜城」 (icotto)
《付録》 「お城探訪記」
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[ 撮影日 : 2023.11.26 (Sun.)] |
《 岐阜城 》
現在の天守は昭和31年に鉄筋コンクリート3層4階建てで再建されたもので、内部は資料館となっている。
天守台石垣の大半は近代以降に積み直されたものだが、当初のものも一部残っているとの事である。 |
金華山 山上部付近図
[出典 : 史跡岐阜城跡 HP]
空から望む岐阜城
[出典:「いまこそ行きたい 信長,秀吉,家康の城/P20」/宝島社]
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当時の金華山全体を描いたイラスト
[出典:「古地図で愉しむ!真説「名城」の秘密/P13」/宝島社]
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岐阜公園案内板
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稲葉城跡之図
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《 岐阜城天守に向かう 》
,「天下第一の門」
ロープウェイ山頂駅を降りたところにある登城口。帰りに撮ったのだが、午後5時前だというのにこの通り長蛇の列だった! |
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「伝 一ノ門跡」
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大きな堀切跡
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←:この左側に堀切跡あり
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「伝 馬場跡」
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二ノ門周辺の石垣
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「伝 二ノ門」
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「伝 二ノ門・下台所跡」
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金華山尾根付近の木立間から天守を望む
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「伝 下台所門跡」
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山城を彷彿させる天守付近の巨石群 :↑・→
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岐阜城への登山道はこれらを含めて4ヶ所あって
かなり急峻と思われるが、何人かの登山者を途中で目にした。
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《 岐阜城模擬天守 》
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← : 天守への入り口手前の看板には
「道三・信長ゆかりの岐阜城(むかしは稲葉山城)」
とある |
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天守台石垣の大半は近代以降に積み直された
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天守最上階より木曽川を望む
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<天守内の展示物>
↑:織田信長像
織田信長愛用の甲冑
(レプリカ?):→ |
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↑:山城を彷彿させる岐阜城の模型 |
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《 岐阜城資料館 》
天守から一段下がった位置にあった郭内の蔵を、
瓦葺き・白壁造り・2階建ての隅櫓形式で復元。 |
「岐阜城資料館」
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岐阜城資料館の説明板
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ロープウェイ駅前のバス停前
から見上げる天守
←:登城前
↑:登城後
(at 17:01)
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JR岐阜駅前に建つ織田信長公像
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