な ん で も 写 真 館




「 楠葉台場跡の発掘調査現地説明会 」
[写真&コメント:10期/管理人]  

12月18日の新聞で楠葉台場跡の発掘調査現場説明会があることを知り、今日参加してきた。
ここは毎朝の通勤時に京阪電車で通っているまさにすぐ側なのだが、迂闊にもそんな調査が行われている事実を
知らずにいたので、新選組フリークの私としては是非とも参加すべく、歩いて10分程の近所の現場に行ってきた。
遺構そのものも興味深く、さらには以前から興味を持っていた歴史的な意義なども学ぶことが出来て実に有意義な
ひとときを過ごしてきた。  (関連ページ : 「我家の近所にある新選組関係史跡」)
以下に撮影した写真の一部と、以前に私が入手済みの資料(←これらは偶然にも現地説明会でも展示されていた)
や説明会で配布された資料などを加えて、楠葉台場跡の概略を簡単に紹介する。
                                                  [撮影日:2008.12.20 (Sat.)]


楠葉台場跡の概要 (説明会配布資料からその一部を抜粋)

台場とは、幕末j期に異国船の襲来に備えて設置された、砲台を持つ要塞(=大砲陣地)。

楠葉台場跡は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流し淀川となる地点近く、枚方市楠葉中之芝地区に位置。
楠葉台場の大きな特徴は、現時点では内陸部の河川に面して設置された台場の跡としては日本で唯一のもので、他に類例を見ないということである。

台場の設置は、京都守護職の会津藩主松平容保が幕府に対し、京都防衛のために八幡・山崎に「関門」を修築すべき、という意見書を提出、勝海舟を総裁として実行に移し、西洋式技術を採り入れた「稜堡式築城」(=五稜郭(北海道函館市)が典型例)をもって、慶応元年(1865)に完成。その後、鳥羽・伏見の戦いを経て明治8年(1875)頃原型ををとどめつつ耕地化。明治末年の京阪電鉄敷設の際、土採りによって大部分がならされ、現在に至る。
また、「楠葉関門」とも称されるように、関門(=関所)としての機能もあわせもっていたのが楠葉台場のもう一つの大きな特徴。尊攘派(特に長州藩)への対策として、京・大坂間を結んだ京街道(=東海道の延長部)の経路を変更して台場内部を通過させ、内部の番所で往来者の検察を行った。楠葉台場は台場という軍事施設と関門という交通施設が同居するという極めて特異な構造を持つ。


   
調査現場一帯から天王山方面を望む
(ちょうど正面に京阪電車が走行中)


【 楠葉台場の復元図 】 (→PDF)
出典 : 「司馬遼太郎の幕末維新を往く」(P76〜77)
(歴史読本臨時増刊 2007/6月号)


【 楠葉台場の当時の絵図面 】 (→PDF)
赤線部は台場内を通行させるべく京街道の経路を変更したもの
出典 : 「河州交野郡楠葉付関門絵図(川々御普請定法書)」

「新撰組」展(2004/6/5〜7/19開催)で購入した資料集、P124)





台場南正面の虎口の
塁の裾部の石積み

土橋の橋桁部の
構築部材の一部

   (参考)

 新聞記事(朝日/2008.12.18付32面) (→PDF)
  
新聞記事(読売/201306.01付)

《追記》
樟葉台場跡を発見したいきさつを書いた新聞記事を見つけたので追記。
 (on 2013.07.04)



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[2008.12.20:受付]    .
[2013.07.04:追記]    .

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