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〜 星々の戯れ〜
「マンドリン物語」のご紹介
[写真&コメント : 10期/管理人]    

先日、偶然にネット上でこんな書籍を見つけ、写真と目次だけを見てすぐに会社のWEB発注システム(代金給料天引き)を利用して発注し、昨日手元に届きましたので紹介します。(実に便利な世の中になったものです。)

こういった類書は私はこれまであまり目にした事がありませんが、マンドリンの歴史を中心にしてわかりやすくまとめられた大作だと思います。特に、10章:「日本のマンドリン」においては、これまで断片的でしか知りえなかった知識が歴史の流れとして体系的に理解できました。その中でもやはり比留間きぬ子先生のご尊父・比留間賢八翁の記述も多く(比留間先生の事も紹介)、あらためて斯界における比留間家の足跡の大きさを再確認した次第です。(ご参考までに本文からの抜粋を以下に2個所ほど転載させていただきましたので、ご参照下さい。)
またマンドリン派文人という個所では、谷渡りさんに関係の深い萩原朔太郎を初めとして数多の文人の話も紹介されており、あらためて日本におけるマンドリン黎明期のエピソードを知る事ができました。




【 表表紙(帯付き) 】

  

【 裏表紙(帯付き) 】


本文からの抜粋 [1] : (10)日本のマンドリン そのあゆみと展望 】

[P199〜]
  マンドリンがわが国に史実的に顕在化するのは後にも述べる明治二十七年だが、実際に市民の間に伝わるようになるのは明治三十四年であろうか。それも外国人が日本社会に持ち込んだとか、楽器商が輸入したというのではない。
  東京音楽学校のチェロの講師の身分でいた比留間賢八が、明治三十二年農商務省が派遣した海外実業練習生(家業であった織物の研究・実習にかこつけて実は音楽に没頭していた)となり、二年間のヨーロッパ遊学を終えて明治三十四年に帰国する際に、個人的に持ち帰ったマンドリンがやがて百花の種となるわけである。
  彼自身二回目になるヨーロッパ遊学だが、一回目の時にはハーモニカとチターを持ち帰っており、この方の先鞭者でもある。マンドリンと一緒にギターも携えて帰国したが、この両方とも外国ですでに習得した経験を生かして、帰国後は彼の専門であったチェロを捨て、マンドリン・ギター教育に生涯を捧げることになる。東京音楽学校創設期に、殊に日本における器楽指導(アカデミックな意味の)の先達として功績のあった人物だが、わが国マンドリン音楽の開祖としての方があまりにも知られている。
  比留間は明治三十四年に帰朝するとすぐに、東京・神田錦町にマンドリン・ギター塾を開いた。その彼のもとに参じた門下生の顔ぶれは、これがまた当時の超一流有名人やその家人で占められているのには驚かされる。大正三年には赤坂に居を移し、関東大震災で区切りをつけるまでの約二十年間のマンドリン・ギターの門下生は、七、八百名を数えるが、各界の著名人のほかアメリカやロシアの大使館員などの外国人も何人か混じっていた。
  楽器導入からまだ日も浅く、今と違って情報も限られている中で、マンドリンがこうまで急速に世間に知られて人気が出るようになったのは、当時すでに知れわたっていた比留間の名声と、普及に費した彼の努力に負うところはやはり大きい。彼がマンドリンの教授を始めてから四、五年を過ぎた頃、初めて新聞が注目してマンドリンのことを次のようにうたっている。

〈マンドリンの流行〉
  今や季は秋に入りて爽気人によろしく、音楽会流行の季節となりぬれば、各方面にて活動の準備に忙はしき由なるが、これも楽界の一名手なる比留間賢八氏は新にマンドリンの一大合奏を組織して大に飛躍を試むる由なり。
  比留間氏は始めてハーモニカを日本に輸入したる人にて、明治音楽会員が曽て沼津の御用邸にて奏楽せし時畏くも東宮殿下の御前にてハーモニカを奏し奉り事ありしが其後又チターをも輸入して日本の楽器に新空気をもたらしたることありき。
  氏は明治三十三年再び渡欧して画地の大家に霊妙の技術を学び、マンドリンを携へて帰朝せしが、爾来その楽器の普及に尽すいしたる甲斐ありて、此度漸く一隊の合奏団を組織し得るに至りぬ。東京美術学校教授岩村透氏の如きは同隊の保護者にして氏の門弟中最も優秀なる手腕を有せりと云ふ。
  マンドリンは弦楽器の中にてはきわめて学習し易きものにて、邦人が西洋の趣味を会得するには最も簡便なるものなれば、愛玩者は日を追ふて増加し、是まで三味線の音締に忙しく声をからして「ほれた男に手をひかれ」など謳ひし実業家の令嬢達も氏に就いてこれを学び、同氏指揮の下に一大バンドを組織する企てある由。
                        (東京朝日新聞 明治四十年九月十七日)

〈マンドリン流行の兆〉
  日本でも近頃はマンドリンの愛好者ができ、その軽快にして派手な装飾的音楽を弄ぶ人々が著しく多くなった。一体、日本人の国民性は軽快にして華麗なるものを好むという風だから、建築や音楽においても独乙(ドイツ)風の重々しい壮重なるものよりも伊大利(イタリー)風の華やかな軽快なものの方が向く理で、近来物々しいヴァイオリンよりも、マンドリンの粋な趣が一般に歓迎されてきたのは、自然の趨勢といわねばならぬ。マンドリンの本場はいうまでもなく、南欧伊太利の地で、ベニスの水郷にゴンドラを浮かべながら、月夜のマンドリンをきくほど、遊子の旅情をそそるものはない。伊大利におけるマンドリンは、貴族の子弟から街頭に漂浪する乞食の子に至るまで「黄昏曲」の一つくらい弾けぬものはないという。
 〜 〜 〜
  日本において初めてマンドリン音楽を輸入したのは、今日もマンドリンの個人教授をやっている比留間賢八氏で、その後、ほとんど国民音楽となり、上は長夜の宴に踊り疲るる岩村透男爵のひきいる美術学校内にマンドリン音楽隊ができ、近年に至っては慶応義塾内にもマンドリン倶楽部が創設され、……(後略)。
                         (朝日新聞 大正元年十二月二十五日)

本文からの抜粋 [2] : (10)日本のマンドリン そのあゆみと展望 】

[P214〜]
  比留間賢八のまいた種はこのように繚乱として今日発展しているのだが、賢八のマンドリンの直系も健在である。比留間の娘、絹子は父を継いでマンドリニストとして大成、その彼女が育てた大勢の弟子の中から抜きん出たのが竹内郁子である。クラシックのオーケストラと共演し、歌謡曲の伴奏からイタリアもの、劇音楽をこなし、東京マンドリン・アンサンブルを主宰し、ソロ活動、後進の指導にと活躍している、現代日本のマンドリン界を代表する名マンドリニストである。
 
[2006.06.03:受付]
   


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連絡先:管理人にメール (猪早逸郎/第10期[1974年]卒業生)



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