【 News & 関連情報 】

〜 明治西洋音楽揺籃時代の隠れたる先駆者 〜
「比留間賢八の生涯」のご紹介
[写真&コメント : 10期/管理人]    

先週このコーナーで紹介させていただいた「マンドリン物語」に触発され、今週は飯島先生の関連著書をご紹介させていただきます。

    明治西洋音楽揺籃時代の隠れたる先駆者
      「比留間賢八の生涯」           → 目次 (PDF x 2ページ)
            飯島國男 著
            全音楽譜出版社 発行 (初版:1989年11月24日)

比留間賢八翁の愛娘である比留間きぬ子先生との深いご厚誼に基づいた詳細な資料類の蒐集によって、緻密で正確な記録をベースにして纏められており、今回改めて目を通しましたが、飯島先生のご努力に敬意を表したいと思います。
これを機にこの本が改めて注目される事を期待したいものです。
(1週間前にこの同じコーナーにて紹介した関連書籍の参考文献欄に、本書がリストされていないのは何とも残念な思いがあります。)

PS:本書で紹介されている日本で最初に製作されたマンドリンや翁が初めて日本に持ち帰ったマンドリンなどを所蔵していた「音の資料館」は、その後どうなったかご存知の方はおられませんでしょうか。(20期前後以降のOBの皆さんはこれらを実際に目にされたと聞いているのですが...。)



【 表表紙 】
(保存ミスで変色してしまいました!)
  

【 裏表紙 】


本書からの転載(P1〜2から)

   はじめに 

  昭和三十年春「比留間マンドリンアンサンブル」の一員として労音の招きによる和歌山、神戸、大阪と二週間にわたる関西演奏旅行を終えて東京に戻った三月十五日、比留間きぬ子先生のお供で、御父君・賢八先生の眠っておられる多磨墓地をお参りいたしました。
  明治音楽界創成期の隠れた先駆者としての碑文に接し、西洋音楽揺藍時代に非常な興昧を覚えるとともに、お隣の信州高遠の出身で当時の立役者たる伊澤修二が、明治の音楽界を一人で背負ったような陽の当たる場所にいた反面、比留間賢八氏の知られざる業績に触れ、極力遺品と行跡の発掘に務めましたが、調べれば調べるほど、その偉大さを知ることが出来ました。
  明治二十年当時には「音楽取調掛」卒業生の大部分は、学校教育に関与していたのでありますが、その中にただ一人、異色の存在がありました。
  比留間賢八、その人であります……。
  以来、先生のご偉業の伝記をまとめるべく、あらゆるツテを求め、多くの人を訪ね、可能なかぎりの資料を漁り、ここに『比留間賢八の生涯』を脱稿する運びとなりました。
  慶応三年(一八六七年)に生まれた賢八氏は、ここに生誕一二〇年を迎えます。
  この生誕一二〇年を期して、これらの収集を公開することにより、華やかな明治音楽界における多くの先駆者のなかで、西洋音楽揺籃時代の知られざる先生の隠れた業績を多少でも皆さんにわかっていただければ幸いと、筆をとりました次第であります。

                                            飯島 國男


本書からの転載(P3〜5から)

   謝  辞   〜 飯島國男著 『比留間賢八の生涯』 に寄せて 〜 

比留間 きぬ子

  昨年七月、飯島國男氏の限りない御配慮と、その企画に、旧門下生・現門下生をはじめ亡き父が生前御教授申し上げた方々、御交誼頂いた方々、そして父亡き後、折にふれ私を励まして下さった数多くの方々の御厚志により、東京において盛大に開催されました亡父「比留間賢八生誕一二〇年記念演奏会」より早くも一年の月日が流れようとしております。
  そのときの感動・感激が未ださめやらぬ今日、飯島国男氏より著書『比留間賢八の生涯』の原稿を拝読いたし、その正確さと緻密さに驚きいりました。
  いかに氏が心をくだいて書き上げられたか胸がふるえました。
  ただただ頭の下がる思いでいっぱいでございます。
  比留間家の先祖からの由来につきましては、娘の私にさえ驚かされるほど緻密に正確に、しかも愛情をもって書き上げられておりまして、さすが飯島氏らしい面目躍如たるものを感じ入りました。
  私の心に常によみがえってくるのは、父の最後の言葉でありまして、「お父さんは音楽界に何のそれらしい貢献もできなかったが、ただ一つ、日本の民衆に西洋の音楽を理解させるためにマンドリンを持ち帰ってきたことだけは覚えておいておくれよ」と、私の手を握りしめたことでございます。
  飯島氏はあとがきで、一度も会ったことがない私の父に対して、「夢の中で会ったことのあるような錯覚を‥‥‥」と書いて下さっておりますが、私には父が「ふつつかな娘にはできぬこと」と知って、氏の夢枕に訴えたとしか考えられません。
  心身を傾けて書き上げられたその御努力を私は心にしめて、今後拙い身をむち打って残る人生をマンドリンのために捧げたいと思います。
  私がこの世を去る日、私は氏の著書を胸に抱いて父のもとへまいりたいと思います。
  この著書が皆様方にも読んでいただけましたら、この上なき幸せでございます。
  昨年の演奏会の企画・指揮についで、「父の生涯」の御執筆に心身をかけて御尽して下さった飯島氏に改めて敬意と感謝をこめて、こんな果報者の私がつづる拙い文の御許しを乞いつつペンを置かせていただきます。

          祈りをこめて

   一九八八年十一月



本書からの転載(写真から)


【比留間賢八翁 】



【 (左) 明治36年 日本で最初のマンドリンを製作 】
【 (右) 明治34年 始めて日本に持ち帰ったマンドリン 】


本書からの転載(P69〜72から)

   ふたたび外遊、マンドリンを紹介 

  〜 〜 〜
  そんな折であったので「もう一度欧州に渡り、音楽の研究を」と考えていた矢先、農商務省でヨーロッパに通じている者を求めていることを知り、海外実業練習生を志願したのである。
  同年十月十一日、「海外実業練習生ヲ命ジ、練習補助費月額、金六十円給与ス」の辞令を受け、十一月二日、海外実業練習生として、単身ドイツのベルリンに出発、実習のかたわらふたたび、音楽の研究に没頭することとなった。
  彼は常日頃から、当時の日本人に洋楽を普及するのには「安価に買え、音程が確かで容易に弾け、親しみやすい楽器がなければ」と思っていたので、イタリア人アッティレ・コルナディ氏にマンドリンを学んだとき、「これこそ自分の日頃から求めていた楽器だ」と考え、あわせて、ギターをも学んだのである。
  〜 〜 〜
  イタリアに赴いたときには、マンドリンの本場を見学してますます愛好の念を増し、いろいろな収穫を得た後、ふたたびドイツに帰ってきた。
  明治三十四年帰国することになり、そのときはじめてマンドリンを持ち帰り、日本に紹介したのである(ギターはこれより以前、平岡大尽の名をもって知られた平岡煕が持ち帰っている)。
 帰国してからは、神田錦町に居を構え、わが国にはじめてマンドリン及びギターの奏法を教えはじめ、門下生を募り、その普及に努めることとなった。
  〜 〜 〜


本書からの転載(P73から)

   マンドリン最初の製作と合奏 

  明治三十六年八月に入るや、欧州より持ち帰った楽器を見本として、共益商社のヴァイオリン製作者、鈴木政古とともに日本で最初のマンドリンを製作した。
  その製作に際しての逸話が面白い。マンドリンは独特の丸みを持っているので、そのネックと本体との接着に苦労している矢先、ちょうど真夏であったので、みんなで西瓜を食べていたときに、その西瓜の皮の形状からラウンドの接着方法を発見したというのである(わが国に欧州よりはじめて持ち帰ったマンドリンと、最初に作ったマンドリンは、現在、「音の資料館」に保存している)。
  明治三十六年十一月、独習用の「マンドリン教科書」を共益商社より発行。二十一頁四十銭(これが日本最初のマンドリン出版物)。
  〜 〜 〜


本書からの転載(P98〜99から)

   関東大震災、松沢村へ 

   〜 〜 〜
  やがて、賢八は一人娘である絹に本格的にマンドリン及びギターその他音楽家としての要素を厳しく教えはじめるようになり、その後はただマンドリン界の将来のため、技術の伝達に専念することとなった。
  それからの賢八は今までの多くの弟子たちへの情熱をすべて、絹ただ一人に傾注し、特訓がはじまったのである。
  それはあまりに厳しく母はオロオロしていたが、絹には「次第に老齢になってゆく父の焦りと、娘への有りあまる愛情の変形である」と悟ることができた。
  父よりこのような特訓を受けた一人娘である絹は、昭和二年(一九二七年)JOAK(現NHK)よリマンドリン独奏を初放送、昭和七年には初のリサイクルも開催、同年、淀橋の精華高等女学校を卒業と同時に精華女子マンドリンクラブを結成、その指導にあたるとともに、ようやく独奏者として1人立ちするようになった。
   〜 〜 〜


本書からの転載(P182から)

    比留間きぬ子略歴 

  幼少より父故比留間賢八にマンドリン、ギターを学ぶ。
  昭和二年JOAK(現NHK)マンドリン独奏を初放送。昭和七年初リサイタル。以後、独奏者、指導者として〔比留間マンドリン研究所〕〔比留間アンサンブル〕主宰育成。昭和十四年十一月、日本で最初のテレビ公開実験に於いてマンドリン独奏を演奏。(我が国初めてのテレビ出演者)
  昭和三十年渡辺精二氏に依頼し初めて幼児用の小型マンドリンを製作し、四才児より指導をなす。昭和三十六年、西独ザールブルッケン国際音楽セミナーに講師として招聘され、ドイツに逗留して、放送録音、演奏会、テレビ出演。
  現在は神戸商大、神戸女子薬大、ノートルダム清心女子大、各クラブ講師。
  ……余技としては昭和二年より四年間、東京音楽学校(現芸大)の分教場(選科)に於いて声楽を、武岡鶴代、立松房子、長坂好子に学ぶ。邦楽は八才より長唄を杵屋栄美恵、日本舞踊を坂東三豊に師事。      (日本マンドリン連盟顧問)


本書からの転載(P200〜201から)

   あとがき 

  昭和十一年、賢八先生が逝去された時、私は小学生で、とうとう賢八先生とは、お逢いする機会はありませんでした。
  しかし、三十数年間に亘り先生の偉大なる足跡をたどってまいりました今、私は何か賢八先生とは旧知の間柄のような錯覚をおこしております。
  私は、夢の中では何回も賢八先生とはお逢いしております。
 そして今回の伝記の中には、夢の中で賢八先生からいろいろとお聞きしたことが、沢山入っております。
  調べれば調べるほど、知れば知るほど、私は賢八先生のお人柄に接し、その偉大さに圧倒される思いで一杯でありました。
  ここに賢八先生の「生誕百二十年」にあたり、明治西洋音楽揺藍時代の隠れたる先生の偉業を讃え、みなさんに先生の足跡を多少でも知っていただければ幸いと、筆をとりました次第であります。
  特筆すべきは、属啓成先生には過分の推薦のおことぱを頂き感激しておりますが、この原稿が、なんと三月十五日(賢八誕生の日)に着いたことであります。
  この不思議な因縁にやはり賢八先生とのなにかの縁を感じ、感慨ひとしおの思いで一杯でありました。
  最後になりましたが、この伝記執筆にあたり、あらゆる点でご支援、ご協力下さいました、賢八先生のただ一人のお嬢様であり、私の恩師でもあります比留間きぬ子先生に感謝中し上げます。

    平成元年九月
                                    飯島國男


本書からの転載(奥付から)
 
[2006.06.17:追記]
[2006.06.10:受付]
   


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