【 News & 関連情報 】


小林伸吾君さんを偲んで
〜 お別れの言葉 〜 〜 告別式後懇談会 〜 
〜 追悼コメント 〜
[写真提供:5期/澤田さん コメント:多くのOBの皆様方]
[2007.04.07:追記]
[2007.03.03:追記]

[2007.02.24:追記]
[2007.02.17:受付]


【 小林伸吾さん告別式後 】
2007年2月12日(月)
於:船橋グランドホテル



  中込(1期)  あべ(精密同期)  内山(1期)
澤田(5期)  小泉(1期)  功刀(1期)  土井(2期)     小山(1期)  布引(10期)
    神田(3期)  狩野(3期)  塚原(4期)       米山(1期)
                                       (敬称略、女性はいずれも旧姓)

 



【 告別式のご報告 】

(掲示板やいただいたメールから転載させていただきました。)


山梨大学マンドリンクラブ創設者の逝去のお知らせ 

                          小山 邦保(1期)  2007/02/10 (土)

今日は大変悲しいお知らせをしなければなりません。
マンドリンクラブの創設者で初代部長をされた小林伸吾氏(享年66歳)が、昨年秋口より病気療養中のところ薬石効なく去る2月8日に逝去されました。ここに故人の多大なる功績をたたえ、あわせ深く哀悼の意を表すとともに、謹んで、通夜及び告別式をご通知申し上げます。

 通 夜 2月11日(日)午後6時より
 告別式 2月12日(月)午前11時30分〜12時30分
 場 所 古谷式典船橋斉苑3階式場(千葉県船橋市市場2-9-1)
                    TEL047-423-5101
 交通  JR船橋駅北口より新京成バス4番のりば、
        芝山団地行 、北習志野行、古和釜十字路行に乗車。
         市場3丁目下車、徒歩1分(JR 船橋駅北口より1.4KM)

     葬儀及び生花等の問い合わせ
     TEL047-423-5100,FAX047-423-5142



小林伸吾氏告別式における功刀和義氏の「お別れの言葉」

      君とのわかれ
                          功刀和義(1期生)

 私はここで何をしようとしているのだろう。目の前に現実があっても信じられません。今でも夢であって欲しいと思います。
すでに、60歳をすぎて仲間も殆ど何かの病気を持っている中で、一番元気だった君が先に行ってしまうなんて、信じられません。
常に周囲や仲間のことを優先して考えてくれた君は、仲間を送った最後になるべきだし、そうなるものと思っていました。
今度の入院、手術のあとに帰宅され、すぐに私に電話をくれましたね。その時に、私と二つの約束をしたことを覚えていますか。
元気な明るい声で手術が成功した報告の後で、一つはリハビリをかねて奥様と温泉に行ってのんびりしてくる事、もう一つは春の1Sゴルフコンペの前に調整をかねた練習ラウンドをする事、約束を守る君が約束を守れないままに行ってしまうなんて、無念だったと思うし、私も信じられませんでした。
君との思い出は40年以上の付き合いなので、数え切れないほどあります。
何といっても同期の仲間7〜8人ではじめたマンドリンクラブのことだとおもいます。ゼロから始めた素人が上手くいくはずもなく、失敗又失敗で先の見えない日々がありましたが、仲間も一人増え二人増えして、卒業時には50人以上の大オーケストラにまでなり、県内だけでなく長野や静岡まで演奏旅行をして、山梨大学にマンドリンクラブありと、多くの人々を感動させることができました。君が部長として率先して、あの多人数をまとめた事が最大の要因です。
同期の仲間で20年以続いている1Sゴルフコンペも、君がすべてを計画し、私たちは春・秋のコンペを同窓会のように、今でも楽しんでいます。船頭をなくした今、路頭に迷ってしまいますが、君の意思は必ず仲間でつなげて行きます。
太く短く生きた君は、長く私たちの記憶に残ります。君の信念を心に残し君の分まで長生きしたいと思っています。
お子様も独立し、これから奥様と楽しい余生を送れたのに残念でなりません。天国で家族、仲間をいつまでも見守ってください。
常に全力投球で駆け抜けた短い一生でしたが、君の人生でやり残したことはないと思います。君が好きだった山や川、花に囲まれ静かに休んでください。
             ありがとう そしてさようなら
                                       [2007.02.24:追記]


故小林伸吾氏の通夜、告別式の報告 

                      小山 邦保(1期)  2007/02/12 (月)

 先の掲示板で御通知の通り、故小林伸吾氏の通夜、告別式は11,12の両日、親族をはじめ会社関係、町内会、趣味の教室の方々等のほか山梨大学マンドリンクラブのOB,OGの多数の御参列もいただき、好天の中しめやかに挙行されました。
内訳ですが、通夜は1期5,3期3,4期2(OG)の計10名
         告別式は1期6,2期1,3期2(OG),4期2(OG),5期1,10期1の計13名です。

お別れの言葉は1期の功刀和義氏が代表として行い、主にマンドリンクラブ創設時の御活躍の様子、また、卒業後もマンクラの同期の仲間を中心にゴルフコンペを20回以上主催し親睦と情報交換を図ってきたことなど、故人の類まれなる強力なリーダーシップと仲間を大事にする良き人柄を紹介された。
なお、ご遺族は奥さんのほか、成人された息子さん、娘さんの3名です。

告別式の後OB,OGほぼ全員で船橋ホテルのレストランで会食、故人の思い出話や夫々の近況報告、このホームページことなどを話し合いました。これもひょっとしたら故人が引き合わせてくれた機会かと有難く感じ入った次第です。
この時全員で写真を撮りましたがこれについては5期の澤田氏が近く提供してくれるとおもいます。  以上。



故小林伸吾さん告別式に参列して

                   土井 清志(2期) 2007/02/16 (金)

小林伸吾さん(1期)が2月8日逝去され、12日の告別式に参列させていただきました。

訃報を小山さん(1期)から電話いただいて以来、告別式当日・今日に至るまで 様々な記憶が蘇り、余りにも早い鬼籍入りに とても残念な思いでたまりません。

**私が山梨大学入学昭和37年6月の1期生による学園祭時演奏会(YUMC歴史第1回演奏会)、(余り出来が良くなく)直後に私が入部申し込みをしたこと。

**小林さんの献身的・情熱的なYUMC発展への強いリーダーシップ。

**何度か ご実家へ泊まらせていただいたこと。

**野や山へ遊びに連れて行っていただいたこと。

**夏休みに大阪へ立ち寄り頂き、盆踊りを一緒に楽しみ、早速 直後のYUMC合宿場に於いて皆で盆踊りを踊ったこと。

**学芸学部0教室(?)での緊張感あふれる第1回(定期)演奏会。

**県民会館大ホールでの、初めての有料・満席の第2回(定期)演奏会

**・・・。

**・・・。

**卒業してからも私の東京出張時、何度か新橋・神田等で ”ホートー”等を ご馳走 いただいたこと。

**私が広島県の造船所に勤務していたとき、わざわざお立ち寄りいただいたこと。

**・・・。

**・・・。

**一昨年船橋でお会いした時のこと(これがお会いした最後になってしまいました)、 ”アンサンブルあざみ”について説明すると 「すごいジャン、頑張って」と小林節で話されたり、”山梨工業会誌へのYUMCに関する投稿”を依頼すると「S37年初演奏会失敗談・直後に土井の入部希望があったこと等 土井チャンに任せるから書いといて、それでいいジャン」と これまた小林節で話されていたこと。

等などが 走馬灯の如く 浮かびあがってきます。

故飯島先生・故比留間先生に続き、小林さんまでがこんなに早く逝去され、YUMC歴史の3本柱を失った感で、慙愧の念で一杯です。

現在 全国各地でマンドリンクラブを創設したり・所属して演奏活動を続けている後輩 も多く、また高校のマンドリンクラブ顧問を務め 若い世代にマンドリンを教え引き継ぐ仕事をしている後輩もいます、現在楽器を手にしていない方々を含め、小林さんには今後とも 全てを暖かく見守り続けていただけるものと確信しています。

小林さん本当にありがとうございました、心よりご冥福をお祈りいたします。

                                       (2期)土井 清志



小林伸吾さんの告別式

                   澤田 稔(5期) 2007/02/12 (月)

猪早さん
(cc;土井さん、布引さん)

こんばんは。
小林伸吾さんの告別式に参列しました。
1期生が大勢参列される中、厳かな告別式でした。
土井さん、布引さんもお疲れ様でした。

お別れは、功刀さんが、同期生を代表して、小林さんに
語りかけるようにお話をされました。
あまりにも若く、仲間より先に逝かれてしまったことへの
惜しみと、仲間のまとめ役だったことへの感謝の念、そし
て、梨大マンクラ創立の偉業を称えられたお言葉に、会場
は咽び泣きの場と化したものでした。

閉じられた後、YUMC関係者で残れる方々は船橋グランド
ホテルにて食事と、歓談をして別れました。
(HPに掲載可能な写真をお送りします。小林さんの祭壇を
撮影するのを忘れていました)

猪早さんが作ってくれたHPの話題も沢山でました。皆さん
が感謝していますよ。
1週間単位の更新を楽しみにしている方が多いことも判明。
これからも、宜しくお願いします。

本日のYUMC関係の参加者
1期生;内山さん、功刀さん、小泉さん、小山さん、中込さん、
     米山さん
2期生;土井さん
3期生;内山(狩野)さん、神田(旧姓)さん
4期生;鏑木(塚原)さん、村松(旧姓)さん
5期生;澤田
10期生;布引さん

昨日のお通夜にも大勢来られたとのことです。
3期生;飯田さん、飯野さん、笠原さん等

以上





【 小林伸吾さんへの追悼コメント 】

(掲示板やいただいたメールから転載させていただきました。)

故小林伸吾君の思い出 
                   中込 惇(1期)  2007/02/14 (水)

小林君は私自身にとっても大の親友であった。それは山梨大学マンドリンクラブ時代は勿論学生時代の交友、卒業後の交遊等、青春時代の相談や家族、遊び、仕事上の話までほとんどが彼の存在なくては考えられなかった。その場は合宿先、喫茶店、各自宅先等々。
その彼が逝ってしまって気持ちの空白がとても埋められない。
とにかく今は彼の親愛なる交友に感謝するとともに、天国で安らかに休んで欲しいと願うばかりである。

告別式の後OB,OGの一部で昼食をとりながら彼の思い出話になった。そして帰宅してからその思い出のひとつが出てきたので紹介したい。それは「山梨大学マンドリンクラブ第二回定期演奏会発表会」(昭和39年11月8日部長:土井清志君)プログラムの記事である。
「今日の日に思う:念願の日がついにやってきた。創立以来3年目にして県民会館大ホールでの演奏発表会。部員一同、今日を目指して本当に良く頑張った甲斐があったと思う。僕はこの感激の日に、3年間の思い出の糸をたどらずにいられない。あれは3年前の入学という大きな春を迎えて、マンドリンクラブ創立をおもいたち、5,6人の級友を誘って計画を立てていった。・・・・・・・」(以下省略し、この後はパンフレットを土井部長(当時)に送り扱ってもらおうと思う。
そのほかの私の彼に対する思い出は沢山ありすぎて全ては書けません。おいおい寄せていきたいと思います。
以上



小林伸吾さんへ 
                   内山英昭(1期)  2007/02/14 (水)

昨年の秋、中央高速道の諏訪湖サービスエリヤから、「今家内と山へ行った帰りだ. お前の家が見えるので電話した「と電話をもらいました.
その折には、そこからすぐだから我が家へ来ないかと誘ったのでしたが、千葉に帰って用事があるとのこと、山梨大学マンドリンクラブのOB会も、そろそろ考えようかと思っているとの話もしてくれました。
年賀状もきて、元気にやっているものとばかり思っていましたところへの訃報を受け、信じられませんでした.
葬儀に参列させていただき、君にこんな状態で会うことになってしまったこと、残念でしかたありませんでした.
学生時代、マンドリンクラブを自ら呼びかけ創設し、持ち前のリーダーシップで皆をまとめ、その後へと続く礎をつくり、それが後輩へと受け継がれていきました.
私自信も、君と青春時代を過ごすことが出来たこと、また私の家内の実家が君の実家に近かかったことから、その後も何かにつけ世話になったことなど、感謝の念で一杯です。
忙しかった現役時代の峠を下り、ようやく時間や、心の余裕もでき昔の仲間とも語り合える時間が取れるようになってこれからという時、大切な存在を失ってしまったのは誠に残念であります.
何事にも全力投球する人でしたから、悔いは残ってはいないのでしょうね. どうぞ安らかにお休みください。 合掌



小林伸吾君を偲んで 
                   平出(小泉)親秀(1期)  2007/02/15 (木)

昭和36年大学に入学し、芙蓉寮の生活にも慣れた頃、精密のクラス仲間でマンドリンクラブを作るので入らないかと誘われ入ったのが小林との実質の付き合いの始まりだった。
早速、飯島楽器店に楽器を買いにいき、私は3000円の鈴木のマンドリンを注文した。
まもなく楽器が届き、精密科の教室の机に腰掛け、教則本をたよりに練習を開始した。
しかし、何もかも自己流で、トレモロにしてもマンドリンを上向きにかかえ、ひじから先を振り2本の弦を平行に引っかく我流だった。
小林は、戦争で父親を亡くし、長男として家を支えながら育っただけに、しっかり者で指導力抜群、我々はだ小林についていく状況だった。
小林も、発起人リーダとしての責任感から寝てもさめてもマンドリンクラブのことを考えていたようで、クラブのためにいろいろ企画し実行していくのが当時の生きがいだったようだ。
しだいにマンドリンの腕も上達し、あちこちで演奏できるようになったころ、俺の家に遊びに来いやと誘われ、甲斐常葉の家に泊まりにいった。
家は、駅から歩いて2分ぐらいで、おふくろさんが経営する古い旅館だった。おふくろさんは小林まさゑさんといい、女手一つで4人の子供を育ててきただけに、気丈でさばさばした人で、小林とは包み隠さず言いたいことを言い合って楽しんでいる感じだった。       大学生活も3年を経過し、卒論に入る時期どちらからともなく、小林と私はペアを組むこととなった。
テーマは、”瞬間溶接”で金属の線材をつなぎ合わせる電気溶接に関する研究ったが、秋の定期演奏会が終わるまではなかなか熱が入らず、年を越してから2週間ほど連続で泊り込み、カップラーメンを食い、目に隈を作りながら何とか仕上げる状況だった。
この頃は小林もまさか卒論のテーマである”溶接”の世界で飯を食っていくとは思ってもってもいなかっただろう。 
小林は、私にとっては友達というより兄貴のような存在でした。
こんなに早く君を失い残念でなりません。
謹んでご冥福をお祈りいたします。



Subject: Re: 悲しいお知らせです(土井清志)
Date: Sat, 10 Feb 2007

土井さん、お知らせ有難うございます。

YUMC OBの方々、1期の田村です。

小林君の訃報を知り、本当に残念に思い、落胆しております。
同期の、それも戦友のような仲間を失うのは、全く辛いことです。

私が東京で働いていた頃には、小林君等在京の1期が時々集まってはYUMC時代の話をよくしたものでした。

ここ数年直接お会いする機会も無かったのですが、年賀状には乗鞍岳へ登った時に写されたコマクサの写真が添付されており、元気で過ごされているのだろう、と思っておりました。

私は一昨年静岡県に転居し、ここを終の棲家として、これからは楽しい事だけを思い描いて生きていこう、と思っていた矢先の訃報でしたので、小林君の思いも同じだったんだろうと思うと、その無念さが判り、胸が痛みます。

猪早さんを始め、皆さんのお力で素晴らしいHPを作って頂き、感謝しております。と同時に、時々HPを覗いては皆様のご活躍に活力を頂戴しております。

土井さんには「もう一度ギターを持て!」とハッパをかけられております。各地で皆さんが演奏活動を始めていらっしゃるのをお聞きしますと、近くに同志の方がいらっしゃれば、合奏してみたいとは思っているのですが・・・。

まずは、押入れの隅で永年寝ておりますギターを引っ張り出してみる事からでしょうか。


小生は小林君の分も合わせて、これからも元気に生きていく所存です。
これからも機会がございましたら、ご連絡を頂戴したく、宜しくお願い致します。

小林君のご冥福を心よりお祈り申し上げます。



Subject: Re: 悲しいお知らせです(土井清志)
Date: Sat, 10 Feb 2007

YUMC OB・OGの皆様へ

5期の澤田です。小林伸吾さんの突然の訃報を伺い、大変悲しく思います。

私が最後にお会いしたのは、4年ほど前、神田にある東京電機大学にてでした。
同大精密工学科の教授をされている米山友之(1期)さんを訪問した時、小林さんも時々大学に来て、学生の実験や講義のお手伝いをされているということで、ちょうどその日はおられて、お話をする機会を得ました。

学生時代、合宿や、演奏会に来られて、クラブ創立当時のお話をよく伺ったものでしたが、当時と同様、お元気なご様子でしたので、今回の訃報は何か信じられない思いです。

その時、このHPの存在をお話し、創立当時のいろいろなエピソードを投稿していただけたら有難いのですがとお願いしたことを想い出します。

現在、10期の猪早さんを中心とした多くの協力者により、HPも充実してきており、マ ンドリンHPの世界では、現役生がいないのに活発で、しかも内容が素晴らしいと注目 される存在になってきております。

このHPのお陰で、OB・OG間の情報交換も盛んになり、仲間意識も高まり、年代を超えて交流も行なわれるようになってきています。まさに、「アンサンブルあざみ」は幅広い年代のメンバーで演奏活動を始めていますし、同期生同士で時々集まって演奏をしてい るというような情報も増えてきています。
そして、7期の河野さんは甲府で、私は、前橋でマンドリン楽団を結成していますが、これらは、小林さん提唱で発足したYUMCのお陰と、心より感謝申し上げます。

これからも、HPはますます充実し、演奏の輪も広がっていくことと思いますが、機会あるごとに、小林さんを偲び、感謝することとなるでしょう。

小林伸吾さんの多大なるご功績を称え、ご冥福をお祈り申し上げます。

澤田 稔



小林伸吾さんの訃報に接して... 
                           猪早 逸郎(10期)  2007/02/10 (土)

昨夜は花金につき深夜帰宅だったのですが、既に小林伸吾さんの訃報メールを2通いただいておりました。そうしているうちに、同期の小山さんからの掲示板への書き込みでその詳細を知る事となり、そのあまりに早く、また突然の訃報を大変悲しく思っています。

大学に入り、縁あってYUMCに入部してから「あひる」や定演パンフなどで目にする沿革には、必ず“小林伸吾氏等精密工学科有志11名により発足”との表記が常にあり、小林伸吾さんのお名前自体が我々にとっては伝説とでもいうべき存在でした。残念ながらその後も直接お会いする機会には恵まれませんでしたが(《後日追記》布引さんのご指摘の様に、10回定演終了後にご挨拶いただきました。)、人伝にはこのHPをたまには覗いていただいているとお聞きしていましたので、その内にOB会などでお会いする機会もあろうかと考えていました。しかし、その機会はこれで永遠に無くなったわけで、誠に残念でなりません。
告別式には残念ながら参列できそうにありませんが、遠方からではありますが、ご冥福をお祈りしたいと思います。
(この投稿タイトル行の後半『[URL]』欄に、私宛に届きましたご葬儀案内にリンクを貼っていますので、クリックしてご参照下さい。)



小林伸吾さんの告別式に参列して 
                           布引 英夫(10期)  2007/02/13 (火)
澤田 稔様(CC:土井清志様)

小林さんはわれわれの世代以降では伝説的な人で、
生前には、定期演奏会後に部員の前でお話を伺ったのみで、
対面してお話をかわしたことはありませんでした。
先頭にたってOBをまとめ、現役の部員にカンパや精神的支えになって
いただいたことへの感謝の思いで、告別式に参加させていただきました。
功刀さんのお話、告別式後の参加者の集いの中で、一層そのリーダーシップ
の強さと人柄の良さを確認いたしました。
今後も、クラブ創設者のリーダーとしての小林さんの偉業は私の心の
なかで生き続けると思います。

以上



小林伸吾氏に教えてもらった音楽の楽しさ
 
                     小山 邦保(1期)  2007/02/16 (金)

 男子ばかりの甲府工業高校生であった私は受験勉強一筋の味気ない生活をしてきたが、大学入学とともに解放され、何か楽しいことをしたいなと思っていた矢先、同じ精密工学科の小林氏が、まだあまり上手ではなかったと思うが、奏でるマンドリンの可憐な音色に、純であった私の心がすっかり惹きつけられ、「入らないか、一緒に遣ろう」との小林氏の誘いにすぐ乗ってしまった。
 指が痛くて不器用で上達が遅く苦しかったが、練習曲の中にも美しく心地よいメロデーに出会ったり、次第に合奏の楽しさも分かり、さらに演奏会の緊張の中皆様から賞賛の拍手を頂いて、益々マンドリン合奏が好きになっていったことを思い出します。
 社会人になってまもなく(42年前)、小林氏から船橋の自分の寮である日本建鐵の松風寮に遊びに来ないかと誘われ行って見ると、高価そうな大きなスピーカーとプレイヤー、アンプが自室においてあり「未完成」や「田園」等を聞かせてくれ「良い音だろう。カラヤンのベルリンフィルの演奏だ。やっぱりいいね。」と得意げな顔でした。その後、労音の演奏会に誘ってもらい鑑賞する楽しさも教えてもらいました。
 徐々に仕事も忙しくなり楽器を演奏することはなくなりましたが、音楽を聴く楽しみは、妻とも共通で、マンドリン演奏はもとよりクラシックであれ、ポピュラーであれなんでも楽しみ、生活にゆとりとはりをもてる様にしています。
そんなことで、音楽がある限り、この楽しさを教えてくれた小林氏を忘れることは出来ません。本当に有難う。心安らかにお休みください。



追  憶 
                米山 友之(1期)  2007/02/19 (月)

そうだ、あの日の空はうす曇だったよな。あの時、せみは鳴いていたかな。大学一年の8月も終わりのころだったよな・・・・。右手前方に八ヶ岳連峰、中央に甘利山その左手に名のとおりの櫛形山、その奥手に将来故郷の市の名称となる連峰、南アルプスがそびえる一大パノラマの中に、小林伸吾君と私はいた。遥かに遠い過去が突然蘇ったのは、奥様の茂子さんから、主人が急逝したとの一報をうけ、ワイフと車で船橋市金杉台にある小林家に向かう途中のことであった。

ある日、連絡もなく甲斐常葉から我が家に訪ねてきてくれた小林君と、しばらくとりとめもない話をしていたが、彼から屋根に上って話そうかとの提案があった。その屋根の上での風景を突然思い出したのである。屋根の傾斜面に腰をかけ、両膝の上に手をおき、頭を伏せながら、しばらく思案していた彼が「・・・米山とは同じにおいがするんだよな・・・」と、ぽつりと一言いった。それほど今風な言い回しではなかったと思うが、要するに、共に長男としての刷り込みを受けたことや、熱すると他が見えなくなるなど(もう少しあるけど、まあこれくらいにしておきます)といった、自分の中にあるコントロールしにくい部分を私から感じ取ったということであろう。たった一才しか違わないのに自己分析もしっかりして、ずいぶん大人なのだなというのがその時の感想であった。しかしその後、マンクラ設立、合宿、県民会館での発表会と、あれよあれよという間もなく一大クラブに育て上げていった彼の業績を考えると、計画性、実行力、組織力等など、とても小生には太刀打ちができない、彼の大きさを感じたものである。当時は小さなアットホーム的なサークルで十分と反発したこともあったが、振り返ってみると、懐かしさと甘酸っぱさを伴って走馬灯のごとく思い出される青春時代の一コマ一コマの多くが、彼との付き合いの中にあったことを改めて認めざるを得ない。

 その後も、似た者同士にありがちな吸引力と反発力のバランスの中で、結構お互いのプラス面を認め合いながら半世紀近い交流が続いてきたように思う。それがこのように突然と消えてしまうとは、世の無常やはかなさなどいう高尚な言葉を用いるまでもなく、寂しさでいっぱいである。
伸吾兄よ、さようなら。
                                       [2007.02.24:追記]

小林伸吾さんと私
               塩田伸生(1期)  2007/02/27 (火)

小林さんが逝ってしまいました。病状は軽いと聞いていたので、どうして!なんで!という気持ちです。
マンドリンクラブを小林さんたちが始めた時に、指揮者をやってくれないかと頼まれ、私がハーモニカバンドなど若干音楽の経験があったので、指揮だけでよければと引き受けました。初めは滑らかにマンドリンを演奏出来るのは小林さんだけでしたし、最初の演奏会ではほとんどの人が、手の汗でピックを飛ばしてしまい、私の指揮とマンドラの音だけになってしまいました。そんなことがあってもまったくめげずに小林さんはマンドリンクラブの育成・拡大に情熱を注ぎました。
私のマンドリンクラブでの仕事は、初期の頃ということもあって、皆で練習する時に、誰が音を間違えたか、誰がリズムが合っていないかを耳でみつけることだけでした。ただそれだけでしたが、その後何年間も、音楽の演奏はどこか間違えるのではないかと気にしながら聞くくせがついてしまいました。
演奏会での小林さんの絶対成功させるんだという真剣な表情は今でも目に浮かびますし、私も小林さんのその真剣さに気持ちを合わせるように棒を振ったことを思い出します。私の退部後も、マンドリンクラブは小林さんたちの情熱と努力で立派なクラブになっていきましたが本当に偉大なことだったと思います。
また、近年はゴルフでも小林さんには年に2回お世話になっており、小林さんは昔ほどゴルフに熱中しなくなったと言われてました。昨年4月に一緒に回ったのですが、その時私が、ゆっくりスイングするには8拍子がいいよと言うと、小林さんはやってみようと言い、左右にばらついていたドライバーが真っすぐになんと290ヤードも飛ぶようになったのです。コツを思い出されたようで、スコアーも80を切りそうでした。そして、これでまたゴルフをやる気になった言われたので、次回を楽しみにしていたのですが、それが私とは最後でした。わたしのゴルフはマンドリンクラブと同じで、人には色々言いますが、100はたたきます。小林さんはバネのあるすばらしい筋肉をしていますので、飛距離では絶対かないませんが、もう少し腕を上げてから、そちらへ行きます。ハンデを10ほどもらって、勝負しましょう。

                                   [2007.03.03:追記]

小林さんを偲んで
                           吉森(神田)貞子

小林さんの突然の訃報に信じられない思いで、ご葬儀に出席させていただいて、早40数日経ちました。

昨秋に、入院なされた事お聞きしておりましたが、また持ち前のお元気な姿が拝見できるものと思っておりました。

マンドリンクラブ創立当時からの交友の深い諸氏の小林さんを偲ぶ文章には、とても及びませんが私なりに記してみたいと思います。
思い起こせば、梨大入学当時、マンドリンクラブの演奏を聴き楽しそうというだけで、楽器の経験が何もないままに入部させてもらいました。私は何とか付いていくだけのギターだったし、途中下車だったのですが、各パートがひとつになり大きな曲になる醍醐味はすばらしかったです。そして合宿の明るさ楽しさは練習の苦しさを越えるもでした。定期演奏会の感動、大勢の中での輪または和は、大学の単位だけでは多分得られなかったことでしょう。多くの人々の青春をはじかせてくれた、マンドリンクラブの生みの親であり、強力な牽引車であった小林さん、そして先輩の皆様ありがとうございました。

時はめぐりて、私は子育ても一段落した頃から、好きな油絵を始めておりましたが、発表の場を得、数年前モチーフの一部にマンドリンを入れた絵を描き、そうだ皆様は?と、住所が分かったのが小山さんのみ。連絡していただいて、以来愛妻家の小林さんにはご夫婦で楽しんでいただきました。 ・・・のに残念です。   ・

奥様はじめご家族の皆様の心中、察するに余りあります。

面倒見の良い小林さんのこと、もう「千の風」になってあちこちと見守っていらっしゃるのではないでしょうか。大きな「千の風」になってご家族の皆様に幸せの風を送ってくださいね。そしておついでがありましたら、今秋も有楽町マリオンのギャラリーでの「樹会」展、覗いてみてください。

            ご冥福をお祈り申し上げます。

                                   [2007.04.07:追記]




「卒業にあたって」
                     小林 伸吾

 いよいよ卒業か。何を書こうか、あまりいろいろの事がありすぎて迷う。マンクラもほんとに大きくなったものだ。ここに文集の第一号もファイトあふれる役員諸君によって発刊の運びとなったし、サークル活動として益々充実したものとなっていくことだろう。
 俺達のやってきたことをふりかえってみるならば、川の侵食作業と運搬作業を少ししたというだけのことである。ほんとうに荒削りで、やたら土砂のみならず、大きな岩のかけらから木の根っこまで削り流しただけのことであった。それだけに、大きなきりたった岩に突きあたった苦しみ、もがき、そしてその流道を迷わされるような視界ゼロの草原に入ってもなおその流道を作るべき解決策としての水溜り造り、方向転換・・・・・・・・・・。
そのとき、その歩みはしばしとどまりはしたが。でもこの川の流れは山あいに肥沃な扇状地を、そして、海抜ゼロの地点近くに人間の文化向上の地となる三角州の作られることを願い...。しまいには、その川の水はよくすんで、生い茂るさんごの森、装いをきそった魚達の群れの中で海流の小さな流れに乗って、楽しい世界旅行の出来る日のいつか来たらんことを・・・それだけを願って.......。
マンクラの歩みはその通りに進んでいる
これから後もそのまま進むだろう。

最後に一言いわしてもらいましょう。
俺は大学四年間を通して何をやったと言われたら、マンクラをやった!と胸を張って答える。マンクラ一筋であった。勉強をやらなかったこと、マージャン・パチンコ等の遊びをしなかったことに対する不安・淋しさなど少しもない。安心していてくれ、マンクラがこんな姿になったから俺が胸を張って答えるわけじゃない。夢中になってやったから、マンクラがこうなって将来の無限の理想に向かって進んで行くんだ。
大分苦しい文になったが、これからどんどん出来る文集に、日記を振り返りつつ連載的に思い出話・童話等寄稿することを約束してこの文を閉じる。

[出典:「あひる」創刊号(昭和40年3月15日発行)より]


上記のほかにも、このホームページに小林伸吾さんの書かれたものを掲載していますので、ご参照下さい。

  ・「今日の日に思う」 (第2回定演のパンフから)
  ・「飯島先生と梨大マンクラとの出会い」 (「飯島國男先生追悼演奏会」パンフから)



故 小林伸吾さん 直筆の 楽譜・歌詞

                                [情報&コメント:1期/中込さん、2期/土井さん]
   「君についていこう」 (←PDF:1ページ)

この「君についていこう」は故小林さんの直筆で YUMC発足間もないころ、小林さんより中込さん宛てに送られたものです。非常に献身的に・熱心に、YUMC発足仲間あて情報・楽譜・歌詞等を連絡されていたことが窺えるものと思慮いたします。
                                       [2007.03.03:追記]


”初代歌声喫茶あざみ歌集”の一部と思われる楽譜・歌詞

                                [情報&コメント:1期/中込さん、2期/土井さん]
   「歌集」 (←PDF:3ページ)

”初代歌声喫茶あざみ”歌集の一部と推測されますが、中込さんも私も断言は出来ません。
(手書きのガリバン刷り:私はおぼろげに記憶しているようではありますが)。
当時マンドリンを弾いておられたK嬢が非常に歌もお得意で、そのレパートリの一つに”アザミの唄” がありましたので、”歌声喫茶あざみ”と命名したものです。
(添付歌集の一部に、アザミの唄が無いのが残念ですが)。

                                       [2007.03.03:追記]






小林伸吾さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

〜 山梨大学マンドリンクラブ OB&OG一同 〜


[2007.02.24:追記]
[2007.02.17:受付]
 


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連絡先:管理人にメール (猪早逸郎/第10期[1974年]卒業生)




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